ガン無視してきた海軍の愚行
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
①マレー沖海戦(1,941年12月)
太平洋戦争開始の二日後に生起した史上名高い
航空機のみで英国戦艦2隻を撃沈した
「マレー沖海戦」では栗田提督は少将で
第七戦隊の重巡洋艦4隻を率いて戦場付近にいた
栗田少将指揮下のの重巡「熊野」「鈴谷」
の水上偵察機で敵艦隊を発見蝕接し続けますが
栗田提督は英戦艦2隻に近づくどころか北方に退避しています。
翌日、基地航空部隊が英戦艦2隻をみごと撃沈し日本軍の大勝利
となり栗田提督の行動は問題になりませんでした。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
②バタビア沖海戦(1942年3月)
ジャワ島上陸占領をめざす日本軍と阻止する
蘭、英、米艦隊との間で起こった海戦です。
ここでも栗田提督は第七戦隊の重巡4隻を率いて
支援隊として輸送船の警戒にあたってましたが
敵艦隊の出現にたいし配下の 重巡「最上」「三隈」
の2艦を差し向けたのみでこの時も主隊は敵から
一定の距離をおき(見方によっては遠ざかる)
戦闘に加わろうとしませんでした。
尚、「最上」「三隈」は大活躍しました。
最上の発した魚雷は敵艦にはあたりませんでしたが
味方輸送船等に命中し三隻が沈没陸軍側総指揮官
今村中将も海に投げ出され溺れそうになりました。
後日、今村中将に誤ったのも栗田提督でなく原提督でした。
この時も緒戦の勢いで日本軍勝利し栗田提督へのお咎めなしです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
③ミッドウェー島海戦(1942年6月)
戦局が転換したミッドウェー島沖海戦の後半でも栗田提督
は重要な役目を担いますが奇々怪界な行動を取り続けます。
米急降下爆撃機による日本側4空母の被弾後も連合艦隊は
米艦隊撃滅とミッドウェー島の占領を諦めたわけではありませんでした。
日本側でミッドウェー島に一番近づいてなくてならないはずの
栗田提督の率いる第七戦隊に連合艦隊司令部から夜間に
ミッドウェー島の航空機の活躍を封殺するように島の飛行場攻撃の
命令を受けますが何故かこの時「島まで距離がある」と自隊の
恥を偲んで返信し、それでも砲撃命令を再度受けしかたなく
夜が明ける前に全速でミッドウェー島目指して走りますが
明け方近くミッドウェー島まで80キロまで近づいた処で
連合艦隊より総退却命令が出て西に反転、その後,気が緩んだのか配下の
「最上」と「三隈」が衝突を起こします。
栗田提督は20ノット以上出なくなった「三隈」と「最上」
を敵制空権下の海域に残したまま自身の主隊は3日間
無線封鎖を続け、連合艦隊の呼び掛けにも応じず西に遁走
雲隠れします。
栗田部隊主隊の無線封鎖で困り果てた南雲部隊、近藤部隊が」
「三隈」と「最上」の救援を行いますがついに「三隈」は
遂に敵航空機の度重なる攻撃を受け沈没します。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
④ろ号作戦におけるラバウル撤退(1943年11月)
ラバウルに迫る米軍の侵攻を阻止しようとトラック島
から重巡10隻以上を率いてラバウル港にやってきた
栗田提督率入る第二艦隊主力ですが米軍の空襲を受けて
沈没艦は無いのに「空襲」を理由に敵艦隊と戦わず
トラック島に遁走しています。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
⑤マリアナ沖海戦(1944年6月)
この戦いから栗田提督の役割・権限・責任は大きくなります。
マリアナ沖艦隊は日本海軍のある意味最後の正規戦で文字通り最後の大決戦でした。
総指揮官は空母部隊を指揮する小沢中将でしたが栗田中将は本海戦NO2の役割で
大和、武蔵以下温存されていた水上部隊を率いて味方空母群より200キロ以上敵に
近い場所に進出し敵の航空攻撃を吸収し、全軍突撃となれば前衛部隊を率いてサイパン島に上陸中の米軍に対して文字通り捨て身の殴り込みを行う第二艦隊を率いていました。
結果はご存知のとおり空母決戦で大敗、それでも闘志の消えない小沢中将は未だ闘志はないが戦力のある栗田中将に水上部隊の夜戦によるサイパン殴り込みを命令します。
しかしこの時も栗田部隊は小沢部隊の東方200キロどころか
小沢部隊の真南に占位し戦場脱出を図りつつ在りました。
栗田部隊の位置にがっかりした小沢提督は決戦を断念し
「夜戦ノ見込ミナケレバ速ニ北西方ニ退避セヨ」栗田中将の自主性に期待します。
退却の理由ができた栗田提督はサイパン・グアムに行けばいくらでも敵がいるのに
「敵情不明ニシテ夜戦ノ望ナキニ付北西方ニ進出(退却?)ス」と勇ましい電文を
放ちこれまた快速で戦場から離脱を図りました。
尚、この時の栗田部隊(第二艦隊)の参謀長は小柳富次少将です。
この名コンビはレイテ島湾口での謎の反転の時も二人で反転を「決心」しています。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
陸軍が真面目に戦争してるのにアホの振りをする海軍。
こんな上官を持つ部下はいたたまれないですね
■
オイコラ! フライングでしょ!
フライングタイガース
海での戦いは戦後のアメリカ軍の報告で
日本との擦り合わせで「定義」された。
しかし、陸は別。
フライングタイガースが結成されたのは
American Volunteer Group(AVG)
1941年4月15日
アメリカのならず者で結成された
いわゆる服役者などの取引部隊
対中戦争では陸軍の行く先行く先で
なぜかフライングタイガースが待ち伏せ
しているかのように遭遇する。
中には中国人が乗っている場合もあるようだが
ほとんどが品性のないヤンキーだったと言う。
カーチスP-40はアメリカの戦闘機なのは
明らかでそれを目撃した日本人はたくさんいた
いかに日本人の主張が現在に反映されていない証拠
日中の戦争の空中戦はすでに日米戦争なわけです
真珠湾攻撃の8ヶ月以上前にアメリカは「計画」をする
カーチス戦闘機350機、ロッキードハドソン爆撃機150機を投入し、大阪・神戸・京都・東京・横浜といった日本の主要都市に対する爆撃を実施する。
爆撃に際しては、木造家屋の多い日本の事情に合わせて焼夷弾を使用する。
ルーズベルトのサインと共に実際にこの計画は実行された
真珠湾攻撃は開戦でもなければだまし討ちでもない
かと言って、備蓄庫も破壊せず、パールハーバー
も押さえないような攻撃に何の意味もない事件だ
戦前にも戦後にも、裁判で処刑に会った人にせよ
真実を見てきた人は悔しい思いをしたでしょう
フライングタイガースは確実にアメリカの正規軍
当初は「義勇軍」と言い張ってたアメリカもさすが
に冷戦後、日中米以外の証拠が続々出だす
ソ連は極貧のためアメリカに媚びることはしなくても
日本には結構 媚び始める時期があった。
1991年にアメリカはフライングタイガースが正規軍だと認める
ハワイ王国の悲願届かず
1881年、世界一周旅行の最初の訪問国として来日した
国王カラカウアは明治天皇に謁見した際ハワイ王国の
安泰のため日本とハワイの連邦化を提案した。
その時のカラカウアからの提案は次の通りである。
・日本・ハワイの連邦化
・日本・ハワイ間のホットライン敷設
・日本主導によるアジア共同体の創設
・カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁談
・同じ有色人種である日本人のハワイへの移民
(当時のハワイは西欧からもたらされた疫病により、原住民の人口が激減していた)
日本はアメリカとハワイを巡る対立を避け丁重に断った
1893年のクーデターの際、明治政府は
「在留邦人保護」を名目として、巡洋艦
「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)「金剛」
をホノルル港へ派遣し、米艦ボストンの
真横に投錨して新政権を牽制した
1898年にアメリカに併合され←ここは無視していいと思う
1959年に完全かつ正式にアメリカ領になった
1993年にアメリカは1898年の併合は違法だったと認め謝罪した
繰り返しますが、真珠湾攻撃の時点で
ハワイの人口の半分は日本人
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高橋是清を騙したユージン・ヴァン・リード
ハワイは日本人に馴染み深い
それは何も年末の芸能人が理由ではなく
ハワイと日本が国交を結んだのは1871年
アメリカの仲介で国交を結んだ
(この時ハワイはアメリカではない)
ユージン・ヴァン・リードは日本政府に了解を得ずに
日本人をハワイに大量に移民させる。これは奴隷貿易ではないのか?
許可なく密出国をしている日本人が過酷な労働を虐げられていることを
問題視した日本政府はハワイ王国に対して労働条件の交渉などを織り込んだ
日布修好通商条約を結んだ
ハワイの背景は真珠湾攻撃まで人口の半分は日本人
残りはフィリピン人、ポリネシア人などで白人は少ない
当然、長くハワイに住む日本人は ユーラシア大陸に手を伸ばそうとする
アメリカをリアルタイムで見てきたわけだ
日本へ向けてアメリカの動向を告げる日本人をスパイ容疑で強い取締りが始まり
3万人ほどがそれから逃れるためにカリフォルニアに逃げたと言う。
結果、西海岸でも日本人は収容所送りにされる。逃げ場はなかった。
基地開発が進むハワイは真珠湾にアメリカ軍人がいるが
全島を見ると 圧倒的にアジア人
パールハーバー攻撃を
平和に白人が暮らしている島を日本が攻撃したように見せる作品が多く
疑問の声も出ないことに疑問を感じてしまうのは私だけなのでしょうか
真珠湾攻撃 1941年
ハワイがアメリカになった 1959年
~皮肉な因果~ 愛しても愛し足りない日本
アメリカ陸軍最強部隊と称えられた 442連隊
ユージン ヴァン リード に奴隷同然にハワイで
パイナップル農園の労働をさせられた日本人。
約35000人がカリフォルニアに
逃れるが強制収容所に送り込まれる
過酷な強制収容所生活から更に逃れるために
対ドイツ戦に向けて収容所のほとんどと言って
いい33000人が日系部隊に志願した。
北アフリカ経由でイタリアに投入され
モンテ カッシーノの戦いは、沖縄、硫黄島
と匹敵する激戦だった。
442連隊の負傷率は97%、死亡は50%
当時、世界最強と呼ばれるドイツ軍と戦火を交える
ローマ陥落まであと10Kmのところで後方から来る
イギリス軍に花を持たせるために停止命令が出る。
涼しい顔して負傷もないイギリス軍が栄光を取るのだ
ローマに入ることも許されず、巡回して北イタリア
からフランスに新たな戦いに行くのだが
ブリュイエールの地元の住人から無冠の王者と
記念の 第442連隊通り を贈られる
ヨーロッパのドイツ、イタリア占領地を日本人が
次々と開放していくのに、名誉を受けれないので
ヨーロッパの各地から日本人を称える声が上がる
不眠不休状態で今度は テキサス大部隊救助に出動
ドイツ軍に包囲され退却も出来ず全滅を待つのみの
211人のテキサス部隊を救助するため、800人の死傷
最期の防衛線、ゴシックライン
連合軍2万人で半年以上、こう着状態を
442部隊2500人でわずか30分で突破する。
日本帝国軍はアジアの植民地を解放し
パイナップル部隊はヨーロッパの占領地を解放する
笑っちゃうほどの最強部隊 作り話のようだが実話。
戦後 442部隊は18000の勲章を受け
全米史上1の最強部隊と認められるのだ
この話が日本に正式に伝わるのは90年後半でしょう
私の祖母はフランス人なのですが、子供の頃から
日本人ほど聖戦をした民族はいないと言聞かされて来た